また悲しいことを書かなくてはいけません。。。
これまでも悲しいことがあったときは、書くことによって、まずなにより自分も心の整理がついて気持ちがすこし楽になるということと、こうして書いた文章が、もしかしてどこかの誰かの心に届いたらなと思ってブログに書いてきました。
長文になりますが、もしよかったら読んでくれたら嬉しいです。
2018年2月13日に実の弟・裕史(ひろふみ)が天国へ旅立ちました。
39歳でした。
兄と弟の二人兄弟だったのに、一人っ子になっちまいましたよ。。。

お兄ちゃんより、目鼻立ちが整ってるイケメン弟くんでした⭐︎
胆管がんという、川島なお美さんや任天堂の岩田社長、ラグビーの平尾さんと同じ、難治性のがんと2年間、最後まで戦い抜きました。
がんのことを書く前に、裕史自身のことをまず説明しなくてはいけないと思います。
小さいころ、普通の子供たちとちょっぴり違う個性をもった弟は、当時「自閉症」という障害者のカテゴリーで呼ばれていました。
現在では障害ではなく「障がい」とも書くみたいですね。
「自閉症」と言うと、レインマンという映画でダスティンホフマンが演じたのが有名だと思います。
言葉での意思疎通はちょっと難しいのですが、いろいろな才能がかたよって発現する人が多いのが特徴で、彼の場合は車のナンバーや嬉しいことがあった日付など、自分が好きなものの数字は一度覚えたら一生忘れませんでした。
例えばみんなであそこに行った日は何日?と聞くと、何年何月何日と瞬時に思い出せるんですよ。
どういう脳ミソの構造なのがわかりませんでしが、ほんとに驚異の記憶力でしたね。
この「自閉症」という言葉は、なんだか自ら心を閉ざした人みたいなイメージがあってあまり正しい表現とはオレは思えません。
自分の殻に閉じこもるというよりも、むしろ彼はいつでも自分の意見をはっきりと主張しましたし、だからと言って決して自己中心的というわけではなく、むしろ人一倍、人の心の痛みに敏感で、街角で子供たちが泣いたりしていると、思わずもらい泣きをしてしまうようなやさしい人間でした。
また好奇心が旺盛で、アウトドアで体を動かすことが大好きでした。
一輪車、自転車、スイミング、スキー、スケートボードなど、興味のあることは何でもチャレンジして人生を自由に謳歌したように思います。
彼がここまで人生を謳歌できたことの大きな要因は、東京の武蔵野市にある
「武蔵野東学園」のおかげだと思います。
この学園は、障がいをもった子供たちと普通の子供たちを「あえて一緒に教育していく」という、「混合教育」をスローガンに掲げる私立学校で、幼稚園〜小中高まで大変お世話になりました。
教育方針は、とにかくポジティブ&アクティブという感じで、スポーツだと一輪車からスキー、スケートボードなど、音楽で言えばピアニカからバイオリンまで、「ちょっとそれこの子たちには無理じゃないの?」なんて思っちゃうようなことでも、とにかく何でもガンガンチャレンジさせてくれる学校で、子供達の無限の可能性をひたすら開いてくれる素晴らしい学園でした。
特にスケボーは卒業後も大好きで、ひとりで公園の専用スペースで滑っていたようなのですが、
ある日、裕史のものではない、ちょっとヤンキー仕様(笑)なスケボーを持ち帰って来てびっくりしたことがあります。
母が心配して公園にいる少年たちに話を聞きにいったところ、どうも我々の知らないところでスケボー仲間に入れてもらっていたようで、みんながもう使わない部品を持ち寄って、裕史のために特別に組み立ててプレゼントしてくれたものだったそうです。

↑この左にあるイカツイデザインのが問題のスケボーです笑。
弟のような障がい者は、現代社会の歯車には社会人としてはなかなか仲間に入れてもらえないのかもしれませんが、このような人たちこそ、むしろ本当に人間らしい、純粋な心の持ち主なのかなぁと思います。
こういう弟と偏見なく一緒に遊んでくれて、仲間に入れてくれたスケボー少年たちに心からありがとうと言いたいです。
学園卒業後は、東京都小金井市にある障がいを持つみなさんが働く「ゆめ工房・さくら」というところで働かせてもらっていました。
ホームページはこちら弟がたいへんお世話になったので、兄としてどうしてもみなさんにお礼が言いたかったので、
母と一緒に初めてその工房へ伺いました。
中に入ると障がいを持った方々が、それぞれの作業をしっかりと、しかしマイペースに楽しく作業をしている様子が伝わってきました。
しかし入り口のところで、なぜかフラッとなにもしないで立っている男性が一人いらっしゃいました。
あれ?彼は作業はしなくてよいのかな?と思いつつ、
まずは真っ先にマネージャーの方に、兄としてしっかりと挨拶せねばと思い、
「弟がこれまで本当にお世話になりまし・・・」と言いかけたそのとき!
さっきから横でフラっと立っていた男性がおもむろに近寄ってきて、
なんと突然泣き出して、オレの手をつかみました。
そして、オレのことを抱きしめてワンワン号泣しはじめてしまいました。
マネージャーの人が、「実は彼にはさっき裕史くんのことを伝えたんですよ。彼はすべてわかってるんです。」と言うもんだから、
きっと彼は俺の顔、声、言葉で全てを一瞬で察知して、とっさにこういう行動をしてしまったんだろうと理解できました。
そしたらもうオレも完全に崩壊して、彼を抱きしめながらワンワン号泣してしまいました。
お礼をお伝えするつもりが、まったくもってお恥ずかしいったらありゃしませんが、彼のハートがすごく嬉しかったです。
こんな弟ですが、言葉での意思疎通がちょっと難しい弟だったことは、決して不幸なことではなく、我々家族をいつも優しい気持ちにさせてくれました。
いま思い返すと、自分は兄でありながら、弟にあらゆることを教えられ、導かれたんだなぁという感謝の気持ちでいっぱいです。
また、父も母も同様の気持ちのようです。
父はほとんど毎週末、弟を連れて山やら海やらいろんなところへ出かけてましたし、母は、同じ自閉症と呼ばれる子供を持つお母さん同士で手を取りあい、ハンドベルのサークルを立ち上げて積極的に活動していました。
障がいを持つ三人の子とそれぞれのお母さんで初めたので、「トライアングル」と言うグループ名にしたらしいのですが、とにかくアクティブに活動して、どんどん人の輪が広がって行き、、、当時オレはもう家を出て独立してましたので詳しくはどういう経緯なのかよくわかりませんが、近所の東京学芸大学の将来教師を目指す学生さんたちや、なぜかJRの職員さんたちとその奥様方まで加わり、最終的にはいろんなところへ演奏旅行へ行くようになりました。
しかもJRの専用列車を貸し切ってですよ!
意味がわかりません笑。
そんな活動がいろいろ新聞などでも取り上げられました。
その記事をアーカイヴしてくださってる方のブログはこちらさらにそのJRの職員さんとのご縁で、JR中央線の武蔵小金井の発車ベルの音は、弟たちが演奏するハンドベルによる「さくらさくら」が、今でも演奏されています。
なんだか同じ音楽やってるお兄ちゃんよりよっぽど活躍しちゃってるような気がしないでもありません笑。
映像をアップしてる人がいました!
(ちなみに、弟たちが演奏したハンドベルを、オレがPROTOOLSで良い感じに編集してありますので、ハンドベルそのものの音は多少抑え気味です笑。)
今回初めて知ったのですが、駅長さんが当時スタッフにこのような張り紙をしてらっしゃったようです。

可能な限りベルの音楽を鳴らしてほしいというお願いですね。。。
障がいがあるということで、なんとなくおうちに引っ込んでしまう親子さんも多いのかもしれませんが、とにかくうちの両親は積極的に外へ外へ!とアクティブに活動しました。
もちろん良い事ばかりではなく、いろいろなことがありましたが、
それでも結果として、たくさんの人の輪が広がって、たくさんの楽しい思い出が出来て、
そしてまわりの人たちをやさしい気持ちにさせてくれて、お互いに人間的成長をさせてくれて、
人生の宝物をたくさん作ることが出来たと思います。
告別式は無宗教スタイルにして、障がいを持つ仲間たちにも気軽に来てもらえるようにしたところ、なんと100人くらい
ハンドベルの仲間や、障がいを持つ仲間たちがお別れを言いに来てくれました。
この場をお借りして、みなさんに心からお礼をお伝えしたいです。




絵も大好きで障害者美術展で入賞して、故・高円宮憲仁親王と久子妃殿下にお褒めいただいたこともあります。
がんの経緯としては、、、
2年前に黄疸が出たことから胆管ガンが発覚し、
10時間以上にも及ぶ大手術で、膵頭十二指腸切除をし、なんとかがんを取り除けたのですが、
やはりこの胆管がんというのは予後が悪いらしく、5年後の生存率は50%以下と通告されてしまいました。
それから半年ほど入院した後、少し状況が良くなり退院して1年ほどは自宅療養と通院で暮らせてはいたのですが、
やはり再発してしまいました。
現代の医学では、この難しいがんには抗がん剤もなかなか効かず、、、
最後はオレを含む家族全員に見守られ、安らかに旅立ちました。
つらつらと長いこと書いてしまいましたが、
このブログを読んでくださったみなさんが、
もしも街で障がい者の方を見かけたら、
「あ、そいえばあっきーさんの弟って障がい者だったって言ってたなぁ」
と思い出してくれたら、オレは嬉しいです。
そして、もし出来たら、、、
出来たらでいいんですが、
心の中でそっと
「こんにちは!」と元気よくつぶやいてみてもらいたい。
心の中だけでいいから。
そしたらそれは、その障がい者と言われてる人たちにきっと伝わります。
彼らの直感力はうちらの何十倍も鋭いから。
そして、みんなが少しでも優しい、
ほんわかした気持ちになってくれたら、
もっと素敵な社会になるかもしれませんね⭐︎
最後に、裕史と同じ胆管がんで天国に行ってしまった任天堂の故・岩田社長に、この場所から激しくお伝えしたいことがあります。
あなたが生前最後にプロデュースした、ニンテンドースイッチ。そして、スーパーマリオオデッセイ。
ず〜っと売り切れ状態でしたが、弟が死ぬ前になんとかギリギリプレゼントできたことが、兄として弟にできた最後のプレゼントでした。
障害を持ってても、病気で寝たきりだとしても、
このゲーム機は取扱説明書もなしで誰でも簡単に楽しめる最高のゲーム機ですね。
弟は最後の方は体調が悪くてベッドやソファに座ってることが多かったのですが、
楽な姿勢でめっちゃ楽しくプレイしてました。
そして、ゲームの中で試行錯誤して、
なんとかクリアしてマリオが次の面へ進める「大きな橋」がパーッと画面いっぱいに広がって行った瞬間、
最後の方は痛みばかり訴えてきていた弟の目が、
ほんとにひさしぶりに「キラッ!」っと輝いて満面の笑顔を見せてくれました。
あの一瞬は、オレの中で永遠です。
岩田さん、そして任天堂スタッフのみなさん、本当にありがとうございました。
これからもみんなが楽しめる素晴らしいゲームを作り続けてください。
- 2018/02/27(火) |
- 日記
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