じいちゃんの話しを続けよう。
覚えているうちに書いておかないと忘れてしまいそうだから。。。
じいちゃんはいつも佐々木家のルーツについてオレらに語っていた。
「佐々木」という名字、
日本ではまあ比較的ポピュラーな名字だろう。
クラスに一人いてもおかしくない、よくある名字だ。
佐々木の「々」という字は、繰り返すときの記号なので、元来は「佐佐木」なのである。
さらに辿って行くと「沙沙貴」という表記で、もとをたどると宇多源氏がルーツらしい。
宇多源氏の流れから、近江あたりでそこそこの活躍をみせていたらしいが、
なんといっても佐々木家でいっちゃんハジケたのが、南北朝時代の
佐々木 道誉(どうよ)先輩である。
うちのじいちゃんはこの道誉先輩の大ファンで、いつも「佐々木道誉」の話しをしていた。
この道誉先輩、別名が「婆娑羅(ばさら)大名(だいみょう)」と呼ばれていて、
一言で言えば、ものすごい勢いで「粋」なオッサンだったのである。
そう!
I K I !!!
この、日本独特の「粋」という言葉は、おそらく他の国の言葉にはないのではないか?
クールとかスマートとかシックとかとはニュアンスが全く異なる。
「粋」は、もう「 I k i 」と表記するしかないだろう。
このオッサンは武士であり、大名であるのだが、なによりも豪華絢爛な芸術を愛した文化的なオッサンだったのである。
例えば、こんなエピソードがある。
道誉先輩は、とある橋の工事を任されていた。
しかし、なかなか工事が進まない。
そこへ幕府内でのライバルである斯波高経が出て来て、ちょちょいと工事を終わらせてしまったのである。
こいつはとんだ赤っ恥である!
さらに斯波高経はイジワルをして、「今度、京都御所でお花見するので来ませんか?」などと誘ってきやがったのである!
ここで、
道誉先輩、
完っ全に、、、
アッタア来た!!!のである!!!笑。
そこで、道誉先輩、
その花見と同じ日に、、、
違うお寺で、もっともっと盛大な花見を開いちゃったのである!!!
どんくらい盛大かというと、
京都中の歌人や踊り子のオネーチャンを一人残らず引き連れて、酒池肉林の大宴会!!!
なんと本物の巨大な桜の木の根元に「花瓶」を作っちゃって「生け花」に見立てるという、まさしく逆転の発想!!!笑。
さらにその横にめっちゃ高価なお香を焚いて、みんなで歌詠んで銘菓を並べてお茶会をやって、酒を浴びるほど飲みつつ、夜は桜をたいまつでライトアップさせながらオネーチャンたちと踊り狂うという、、、まさにこの世の「極楽浄土」を再現してしまったのである!!!笑。
S O ! ! !
T H I S I S " I K I " ! ! !
先輩、、、やりすぎッス!!!笑。
とにかく先輩、常にオイシイところばっかりを狙うもんだから、、、
足利に付いたり、朝廷に付いたり、あっちについたりこっちについたり、、、
とにかくコロコロコロコロ「寝返り」しまくり笑。
究極の「自由人」っぷりを遺憾なく発揮したスーパー大名だったのである笑。
ただし一言付け加えておくと、「南北朝時代」というのは、裏切り・寝返り・暗殺・暴虐・下克上なんでもおっけいという、とんでもない時代だったわけで、そういう時代を「粋」に生ききったスゴイオッサン、ということは言えるのではないかと思います。
これが「婆娑羅(ばさら)」たる由縁である。
時代の既成概念に捕われず、己が信じた美学を貫き通すのである!!!
ようするに、、、
やりたい放題!!!笑。
T H I S I S " B A S A R A " ! ! !
佐々木家の男児たるもの、「婆娑羅(ばさら)」の心を忘るべからず!!!
とにかく、じいちゃんがこの道誉先輩の大ファンで、いろんな話しをしてくれたのだが、
この道誉先輩が、「佐々木佐渡判官入道」ということで、佐渡の判官だったらしく、
おいどんたちは、その子孫だと、、、じいちゃんは言っていた。。。
本当かどうかはわからんが、、、まあこういう話しはロマンがあって面白いんじゃね???
みんなも自分の家のルーツを探ってみると面白いよー!
そういえばうちのバンドには、あの伊達家の子孫の方もいらっしゃいますな笑。
- 2009/06/16(火) |
- 日記
-
朝、、、
友達からのメールが来て気がついた!!!
メールくれたみんな!!!ありがとう!!!
そう!
今日は
すっかり忘れていた!!!
おいどんの誕生日!!!
大至急!!!
ハッピーバースデーオレ!!!
そう!!!
喪中だけどハッピーバースデー!!!
元気でいられるってことは、本当にありがたいことだぜい!!!
っていうか、あともうひとつ、、、
大事なことがあるぜ!!!
そう!!!
禁 煙 一 年 目 ! ! !
悪いけどさ。
いちおう一年経ったわけだしさ、、、
あえて言わせてもらいたいね。。。
禁 煙 成 功 ! ! ! と ! ! !
ほんとに、ヤメようと思ったら、、、
ヤメれるもんなんだね。。。
もしもこれを読んでいる人で、
禁煙したいと思ってる人がいるならば、、、
こーーーーーーーーんなに
いーーーーーーーーかげんで、
ちゃーーーーーーーらんぽらんで、
おっぺけぺーーーーーーーーーーーなオレでもよ???
ほんとに禁煙出来ちゃったのよ???
だから、、、
DA KA RA ! ! !
みんなだってヤメられるハズだぜ!!!
それだけは言える!!!
言いたい事はそれだけだーーー!!!
オレの誕生日なのに、、、
なんとも悲しいニュースが入って来てしまった。。。
信じられない。。。
みさわーーーーーーーーー!!!
プロレスラーの三沢光晴さんが、、、お亡くなりになったそうです。。。
高校時代、いつも深夜の全日プロレスを見ながら受験勉強をしていた。。。
いつもチキンラーメンを夜食に食べながら、プロレスを見て、、、
元気と勇気をいっぱいもらって、、、受験勉強していたんだ。。。
ブラウン管越しの三沢さんのファイトに、いつも勇気づけられていた。。。
申しわけない事に、生で試合を見た事はないのだけども、、、
ファンだなんて、気軽に言っちゃイケナイのかもしれないけども、、、
あえて、、、いちファンとして言わせてください!!!
この事故が、プロレス界にとってマイナスになりませんように。
三沢さんが目指したピュアなプロレスが、これからもずっとずっと発展しますように。
三沢さん、ありがとう!!!
- 2009/06/14(日) |
- 日記
-
じいちゃん一家は中国から佐渡へ帰って来たはいいものの、、、
終戦直後。。。
しまったぁ!!!仕事がねえ!!!
ということで、とりあえず魚の行商とかやっていたらしい。。。
やがて、佐渡に家畜保健所が出来ることになり、そこの初代所長になる。
ここであらためて説明が必要だが、
じっちゃんは、「食」というものに、非常にこだわった。
貧しい日本人の食生活には、なにより「牛」が必要だ!ということで獣医師になった男だ。
牛さんのすごいところは、その肉は動物性タンパクの牛肉となり、そのおっぱいは牛乳、チーズ、バターというカルシウムたっぷりの乳製品になるところである。
特に、牛乳、チーズ、バターを、じいちゃんは毎日食べ続けた!!!
栄養バランスの取れた食生活を、自ら実践し続けたのだ。
ただし、牛肉については、「小肉多菜」を心がけ、それほど肉は食べなかった。
肉を食べる日も、魚を食べる日も、野菜を食べる日も、ライスカレーを食べる日も、
常に牛乳、チーズ、バターいずれかの乳製品は一日も欠かす事がなかった。
さらに、納豆、のり、ゴマにもこだわった。毎日欠かさず食べ続けた。
おいどんが小学生のときに夏休みに田舎へ帰ると、
食卓に出されたものをお米ひとつぶでも残そうものなら、、、
じいちゃんは烈火の如く怒鳴りちらした!!!
「だあらっしゃああああああああああっ!!!」
「は、はいっ!!!すんませんっ!!!」
さらにじいちゃんは、食べ終わった後の皿をナメた!!!
皿を、牛のようにペロペロなめるのである!!!
これは本当に幼心にも正直びっくりだった。
びっくりと同時に、正直、すごくイヤだったのだ。
しかし、今から思えば、戦時中の本当にご飯が食べられなかった時代を生き抜いた人なんだなあ、とつくづく思う。
さらに食後には必ずデザートとして果物を食べた。
スイカ・ナシ・ぶどう・メロン・桃とにかく食べ続けた!!!
さらにその後、なんとアイスクリームを食べた!!!
言うまでもなく、アイスクリームは「バニラ」のみ!!!
そう!!!ここでもまた乳製品なのである!!!
小学生だったおいどんが「ガリガリ君ソーダ味」を買ってくれと買い物かごに入れたら
ものすごい勢いで叱られた!!!涙。
とにかく、徹底していた。
日本人に足りないのは栄養素!!!
栄養バランスの取れた食事!!!
そして乳製品!!!
これを実践しつづけ、、、、、、
じっちゃんは、、、
じっちゃんは、、、
ものすごいデブだった!!!
ただのデブではない!!!
なんと100kgオーバーである!!!
牛を愛するが故に、、、全く、ビジュアル的にも牛そのものになってしまったのである!!!
おいどんの小学校のときの友達に、ハーフの男の子がいたのだが、
うちのじいちゃんを初めて見た時に、、、彼はこう言った!!!
「ヘーイ!あきクーン!!!きみのグランドパは、、、スモウレスラーかい???」
くれぐれも誤解しないでいただきたいが、、、
栄養バランスのとれた食事、そして乳製品をとると、必ず太るということではない。
何事も度が過ぎてはイケナイ!ということだとおいどんは思うのだ。。。
じいちゃんは、とにかくものすごい量を食べていたから。。。
しかし、、、
たしかに100kgオーバーの巨漢ではあるが、、、
98歳まで生きたということは、、、
この健康法は、、、間違ってはいない!ということを、身を以て証明したと言えるだろう。
とにかく、佐渡の家畜保健所から新潟県庁まで勤めて、「佐渡牛」というブランドを確立した男なのである。
つづく!!!
- 2009/06/08(月) |
- 日記
-

この景色は、数年前、
まだ祖父が元気だったころに佐渡島の海岸線をドライブしていた時に見つけたお花畑です。
我が家が介護で大変だと、いつか書いたことがありましたが、、、
2009年6月2日に、祖父・佐々木智敏(ちとし)が逝去しました。
享年98歳でした。
介護は大変でした。
最後は寝たきりとなり、口からも食べれなくなりました。
特にうちの母が大変でした。
でも、、、、、、、、
母も含め、家族みんなの願いは、「100歳まで行って欲しかったなあ」というのが本音でした。
でも、ここまで長生き出来たんだから、、、
大往生です。
ここでいつもの調子に戻ろうか。
そう!
これこそ!!!
DAI OH JOH!!!
とか書いたら不謹慎と思われるかもしれないけど、、、
実は!!!
こういうおいどんの少々オーバーな表現形式は、
すべてこのめっちゃ偉大なる祖父からの隔世遺伝によるものなのである。
1のことを10倍にして人に面白おかしく伝えることが大好きな人だった。
おいどんは幼少時、夏休みになると毎年、従兄弟と一緒に佐渡島の祖父のところへ預けられたのだ。
そうすると、、、
毎年毎年、
毎晩毎晩、
毎度毎度、
「あきーろぉ!おじいちゃんはなぁ、昔、スゴかったんだっちゃどぉ!!」
という、佐渡弁による「オレすごい話!!!」が延々と続くのである笑。
おいどんたち佐々木家の間で、永遠に語り継がれるであろう、
ほんとにすんごいおじいちゃんだったので、
このブログを読んでくれているみんなに紹介しましょう!
そして、このじいちゃん伝説を読むと、、、おいどんのことがよりわかるかも???笑。
じっちゃんは、大正生まれ。
生まれたのは北海道だが、小学校5年で故郷の佐渡島へ飛ばされる。
そう。
親元からいきなし飛ばされたのである!!!
我々佐々木家のルーツは佐渡島で、じっちゃんの両親は佐渡島から北海道の釜谷というところへ行ってちっちゃい小学校の校長先生をやっていたのだそうだ。
そこでいわゆる丁稚奉公というやつなのか、なんなのかわからんが、とにかく次男であるじっちゃんが、故郷の佐渡島へ飛ばされたのである。
いきなしちっちゃな島の親戚の家に預けられ、、、佐渡島で青年となったじっちゃんにはひとつの夢があった。
それは、「映画監督」になること!!!
なので、日大の芸術学部を受験した。
しかし、当時は食糧難の時代。
主食がさつまいもとかそんなんだったのだ。
冷蔵庫なんてないから、裏の山に横穴をあけて涼しいところに保存しとくとか、そういう時代だ。
ステーキなんて食べた事もない。銀色の米もめったに食えない。
ほんとにそういう時代だったのだそうだ。
勉強熱心だったじいちゃんはいろんな書物を読んでこう考えたそうだ。
「これからの日本人には、栄養が必要だ!」と。
「映画」より「栄養」だったのである。
そこでさんざん悩んだ末、日大芸術学部をやめ、
のちに日大と合併することになる日本獣医専門学校へ入学した。
卒業して獣医師の資格を得ると、北海道の雪印乳業へ就職。
そのとき、すでに日本は太平洋戦争に突入していた。
獣医師なので戦役を免れ、乳牛の研究に没頭しているところに、
お国から「中国大陸での乳牛の技術指導」という指令が下る。
そこで佐渡の名家の生まれのばあちゃんと結婚し、大陸へ渡ったのであった。
ばあちゃんに「よく中国へ付いて行ったねえ」と聞いてみたところ、
当時は「大陸の花嫁」というキャッチフレーズがあって、
「大陸で働く男」というのはカッコよかったんだそうだ。。。
すごい時代だったんだなあ。。。
当時、もちろん飛行機などない。
神戸まで汽車で行って、港から普通に「船」!!!
そう!!!
FU NET!!!
すごい話しだよねえ。。。
船で三日かかって青島(チンタオ)へ、そして馬車で山東省へ。
ここで歴史の勉強だ。
日本は「対華21ヶ条要求」を中国へ突きつけ、山東省の権益は日本が引き継ぎ、
青島は日本軍が統治していた時代だったのだ。
傀儡国家「満州国」を作り上げ、、、
そして太平洋戦争へと突入してゆく。。。
じいちゃんは戦争の是非について、多くは語らなかった。
じいちゃんは、あくまでも乳牛の専門家。
「人間の暮らしを豊かにする、家畜の正しい飼育方法の指導者」だったのだ。
でも、ひとつだけ、言っていた事がある。
当時、日本人は中国の人たちをバカにしていた。
同じ獣医師として中国へ渡った同僚のうちでも、中国人に対してずっと差別的な態度をとっていた人間がいた。
終戦と同時に、日本人には帰国命令が下されたが、
中国人に対して差別的態度をしていたその同僚は、そのどさくさのときに殺されたらしい。
うちのじいちゃんは自分がいかにすごい男か大ホラは吹くが、人の悪口は決して言わない人だった。
終戦のどさくさの帰国のときに、
ある中国人の友達が、
「佐々木さん、こっちだ!こっちアルよ!」
と言って逃げ道を教えてくれて助けてくれたのだそうだ。。。
女房と小さな子供3人(おいどんのオヤジ含む)を抱えて、
命からがら大陸から引き上げてきた。。。
あと、「蒋介石はオラっちが日本に引き返すときに守ってくれただ!」といつも感謝していた。
歴史的にみると蒋介石さんはいろいろな評価があるようだが、じいちゃんはとても好意的に評価していたようだ。
っていうか、じいちゃん物語になっちゃったなあ。。。
続く!!!
- 2009/06/08(月) |
- 日記
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